第161回芥川賞を受賞した、今村夏子さんの作品です。私もこれまでそれほど芥川賞受賞作品を読んできたわけではないのですが、そのどれよりも読みやすく、ページ数もそれほどないので、あっという間に読み切ってしまいました。
あらすじ
近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女のことが、気になって仕方のない〈わたし〉は、彼女と「ともだち」になるために、彼女を観察しつづけ、〈わたし〉の職場で彼女が働きだすように誘導する。
感想
会話が多いので話のテンポも良く、文字数は少なくて文体も平易なので、子供でも難なく読めるでしょう。多少ネタバレを含みます。
印象としては何より面白い。とにかく選挙カーのウグイス嬢のごとく「むらさきのスカートの女」を連呼しています。きっとワープロソフトの短縮よみで「む」と打ったら即座に出るようにしてるんだろうなとか、あるいは「m」で変換かなとか、作品中で何回「むらさきのスカートの女」が出てくるか数えてみようかとか、どうでもいいことが気になるくらいに、文中に「むらさきのスカートの女」が登場してきます。
読みながら、「これが本当に芥川賞受賞作なのか?」と疑ってしまうほど下世話な内容で、ある意味くだらないと言ってもよいくらいなんですが、とにかく<わたし>のキャラクターが滑稽で、本来は目立たなく、口数も少ない大人しい性格のはずなのに発言や行動は強烈で、実際にその姿や行動を想像すると笑えてしまう。
やっていることも結構悪どかったりするんですが、それもこれもむらさきのスカートの女に対する思いの強さから来ていると思うと、その行動や思考がなぜか許容できてしまう。きっとホテルの備品をバザーで売りさばいて日銭を稼いでいたのも彼女なんでしょう。これを普通の人が書いたら、ただの狂気じみた気持ち悪いストーカーの話になってしまうだろうと思いますが、それを面白おかしく表現できるのは、やはり作者の文才なんでしょう。
ただ、受賞した理由が、語り手である<わたし>がむらさきのスカートの女と同一人物ではないのかとか、読み方によって色々読めるからというのがその一因のように書かれていましたが、私には同一人物に読める要素は見当たりませんでした。というのも、他の方の感想を読んでみると、「黄色いカーディガンの女(わたし)」=権藤チーフであるということが最後に出てくると言ってる人も結構いるんですが、わたし=権藤チーフであることは、物語の中盤、仲間内で串カツ屋に飲みに行った件ですでに出てきています。
塚田チーフが言った。「ほら、おととい稼働率低かったじゃない。三時に上がったもんだから、そのまま四人で駅前の串カツ屋に直行したの」
「四人で、ですか?」
「そうよ。あの日は沖田チーフも野々村チーフも堀チーフも休みだったから」
「権藤チーフは……、行かなかったんですか?」
と、こちらを気遣っているつもりなのか、古参スタッフの一人が小さな声で言った。
「だって権藤チーフは下戸だもの」
と塚田チーフが言った。「飲めない人誘って、気を遣わせるのも悪いでしょ」
「そうそう、それにおとといは権藤チーフも休みだったしね」 と橘チーフが言った。
このくだりで、<こちら>というのは私以外には考えられないので、わたし=権藤チーフは下戸で、むらさきのスカートの女との飲み会の日は休みでいなかったことになります。
芥川賞の受賞会見で、筆者本人も後から編集者に言われて、読み方によって色んな見方ができることに気づいたようなことを言っていたので、特にそれを意識していたわけではないのでしょう。
ただ、<わたし>があまりにもむらさきのスカートの女の個人情報に詳しすぎるために、実在する人間なのかというのは誰しも疑問に思うでしょう。いくら近くに住んでいるとは言え、出勤時間から何から、他人の生活、行動パターンをすべて知りつくしているというのは、あまりに不気味です。
正直、読み終えてから、「なんだったのか?」という思いは大いに湧くんですが、きっと、その余韻も含めてそのまま受け止めるのが正しい読み方なんでしょう。いずれにしろ、一風変わっているけれども、今まで読んだ中で一番面白い芥川賞受賞作品でした。
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