2023年本屋大賞第2位、その他に第6回未来屋小説大賞、第25回大藪春彦賞を受賞した安壇美緒さん著のスパイx音楽小説です。略歴によると著者の安壇美緒さんは、1986年北海道生まれ。早稲田大学第二文学部卒業後、2017年に『天龍院亜希子の日記』で第30回小説すばる新人賞を受賞して作家デビュー。著書に北海道の女子校を舞台に思春期の焦燥と成長を描いた『金木犀とメテオラ』があります。
あらすじ
少年時代、チェロ教室の帰りにある事件に遭遇し、以来、深海の悪夢に苛まれながら生きてきた橘。
ある日、上司の塩坪から呼び出され、音楽教室への潜入調査を命じられる。
目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。
橘は身分を偽り、チェロ講師・浅葉のもとに通い始める。
師と仲間との出会いが、奏でる歓びが、橘の凍っていた心を溶かしだすが、法廷に立つ時間が迫り……
読書感想(ネタバレあり)
上にリンクした集英社のページの紹介文などを読むと、勘の良い方なら内容がだいたい想像つくのではないかと思います。また、読み始めて「ああ、あれか・・・」と思い当たる人はわりと多いと思います。なので今回は、かなり中身に突っ込んで書こうと思いますので、未読の方はお気をつけください。
ラブカというのは元は深海魚のサメのことですが、小説中で語られる架空の映画のタイトル、「戦慄きのラブカ」に登場するスパイの比喩で、この物語の主人公のことでもあります。その主人公、橘が務めているところが「全日本音楽著作権連盟」。そこの上司から「ミカサ音楽教室」に潜入捜査を命じられます。
これはまあどう考えても、数年前に問題になった「音楽教室著作権裁判」がモチーフだなというのはわかります。当時、「全日本音楽著作権連盟」ならぬ「一般社団法人日本音楽著作権協会」(通称JASRAC)が、「一般財団法人ヤマハ音楽振興会」(ヤマハ音楽教室)を始めとする音楽教室を相手に著作物使用料を求めたことに対し、音楽教室側が請求権不存在確認の訴えを起こした裁判です。その裁判において、JASRACが一般の主婦に扮した職員を、素性を隠したままスパイとして実際に潜入させていたことなども大きな話題となりました。
当時からJASRACの行き過ぎとも思える著作権使用の請求が問題となっていたこともあり、一部のネットユーザーからはJASRAC(ジャスラック)をもじってカスラックなどと陰口を叩かれることも多かったように思います。この裁判に関してはすでに最高裁判所の判決が確定していますが、物語は実際にスパイとして送り込まれた主人公が、教室で教わる先生や同じ生徒仲間たちとの親交を深めるにつれ、スパイとしての自分の立場に後ろめたさを感じるようになり、自分の裏切り行為に葛藤するようになります。
これ以上話すとほぼ全部ネタバレになってしまうので控えますが、物語の導入から日常の行動まで、実にうまく描写されています。あまり突飛な出来事とか無理筋な展開などもなく、淡々と毎日が進んでいくんですが、読んでいて決して退屈しません。
著作権に深く踏み込んでいるわけではないので、法律論のような間怠っこしい内容ではありません。きっと社会人の方なら誰もが経験しているような、自分の信念と組織内での上からの命令との板挟みだったり、仕事から離れたときのほっとした瞬間だったりという、当たり前の日常を主人公と重ね合わせることが出来る人が多いのではないかと思います。
これはあくまで私の感想ですが、最近小説を読んでいてよく思う、「ああ、これは女性の文章だな」と感じるところがほとんどありませんでした。スパイという役柄から、けっして明るく楽しい文調にならないのは当然ですが、逆に徹底的に暗澹としているわけでもありません。
主人公の好きな、チェロが奏でるバッハの「無伴奏チェロ組曲」の音色のような作品です。
私も実際にこの曲を聞きながら読んでいましたが、世界観がとても重なるように感じました。読後感も素晴らしい本屋大賞2位も大いに納得の秀作でした。
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