2023年本屋大賞第7位、「週刊文春ミステリーベスト10」&「MRC大賞2022」受賞、その他多くのミステリーランキングにもランクインした夕木春央さん著作の推理小説です。著者の夕木春夫さんは、1993年生まれ。2019年、「絞首商会の後継人」で第60回メフィスト賞を受賞。同年、改題した『絞首商會』でデビュー。近著に、『サーカスから来た執達吏』があります。
あらすじ
9人のうち、死んでもいいのは、ーー死ぬべきなのは誰か?
大学時代の友達と従兄と一緒に山奥の地下建築を訪れた柊一は、偶然出会った三人家族とともに地下建築の中で夜を越すことになった。
翌日の明け方、地震が発生し、扉が岩でふさがれた。さらに地盤に異変が起き、水が流入しはじめた。いずれ地下建築は水没する。
そんな矢先に殺人が起こった。
だれか一人を犠牲にすれば脱出できる。生贄には、その犯人がなるべきだ。ーー犯人以外の全員が、そう思った。タイムリミットまでおよそ1週間。それまでに、僕らは殺人犯を見つけなければならない。
読書感想
いわゆるクローズド・サークルの推理小説です。例によって推理小説ですので、あまり中身に突っ込んで書いてしまうとネタバレになってしまいますから、あらすじに書いてある程度のことから考察してみたいと思います。推理小説に没頭できるかは、その事件の蓋然性、あるいは人物や舞台背景に無理がないことだと思いますが、ちょっとその辺を検討してみましょう。
この小説の舞台はあらすじにあるように、とある山奥の地下建築です。事件に巻き込まれるのは主人公と大学の元サークル仲間、それと主人公の従兄弟という設定ですが、卒業して何年か経つのに、わざわざそんなところに出向くかというのはあります。これは、一応登山サークル仲間ということで、冒険心は旺盛な人たちなのでしょう。歳を取ってめっきり保守的になったおじさんからすると、快適な別荘から女性連れでわざわざそんな場所に行くかなというのもありますが、今どきは女性が野営地でソロキャンプする時代ですから、それほど不自然ではないのでしょう。そんな女性を見つけて声をかけたおっさんが気持ち悪いと、先日ニュースにもなっていましたね。
タイトルの方舟というのは、その地下建築物を創造した者たちが名付けた名称ですが、元々はキリスト教の旧約聖書に出てくるノアの方舟を模したものです。流石に言葉だけでは分かりづらいので、途中でその建築物の構造図や断面図が出てきます。地下三階構造で、地下一階まで降りるのに、7,8メートル梯子をくだります。仮に一階の天井高が3mだったとしても、地面から5m下にある建築物です。形は方舟に近いと想像できるものですが、出入り口が2箇所で普段は蓋をされてしまっています。さらに一方の出入り口は地下三階としか繋がっておらず、しかもその地下三階は途中まで浸水し、地震によってさらに水かさを増して来ています。
こうなると、特に通気孔が設けられている感じでもない場所で、酸欠にならないのかと心配になります。中にLPガス発電機があるので、それによって電力を供給しますが、その発電にもそれなりに酸素を使うだろうと考えると、より早く酸欠状態になりそうです。というよりは、その場所でそもそも発電するとなると、より完全な換気システムは必須のような気がします。
さらに蓋然性という点では、地震によって出入り口の蓋が潰れる可能性があるならば、仮に通気孔があってもそれも埋まる可能性も大いにありそうです。ただ、一応発電機の排気口は外に通じているらしいので、その辺の心配は無理矢理にでもクリアということでいいのでしょう。あまりそっちに気を使うと、水没以前に目に見えない酸欠、もしくは発電機の不完全燃焼による一酸化炭素中毒を考えなければならなくなり、タイムリミットがわかりづらくなります。
そんなことを言いつつ、かなり重箱の隅をつつく感じの難癖を付けてみましたが、推理小説としては絶賛したいほど面白いと思います。特に地下建築物の中という舞台の背景は、それだけで一種の恐怖や不安を想像させ、たちまちその世界に没頭できます。また、主人公と同じ目線で物語が進んでいくので、あたかもそこにいるような錯覚に陥り、自分も主人公の緊張感や不安、昂り、悩み事などを共有出来ます。
ただ、心理的な問題として、誰かと行動をともにしている時に、仲間のだれか一人を犠牲にしようと言う気持ちになるのかという疑問もあります。それは自分がそういう状況になったことがないので、実際にどういう思考になるのかは想像もできません。一人残るのではなく、二人にすれば、救助を待つ間孤独にならずに済むし、むしろ仲間を助けるために積極的に自分が犠牲になることを望む人も出てきそうです。そうすれば一週間も浸水を待つ必要はありません。
ただ、それを許さないのが誰が殺人犯なのかわからないという状況ですね。犯人以外の人は、誰もが殺人犯と行動をともにしなければならない危険性がある。その犯人は自分も殺そうとするかもしれない。そうなるとやはり殺人犯の特定を先にしなければならないということになる。この辺の筋書きはとてもよく出来ていると思います。
個人的な本屋大賞の印象として、推理小説はあまり上位にならないように感じます。これは題材が殺人事件などの凄惨な内容になってしまうので仕方のないことだと思います。ですから、逆に見れば推理小説が本屋大賞にノミネートされるだけでもかなり面白いことの裏付けになるだろうと思います。特にこの前も言いましたが、今回2023年度の本屋大賞は、5位から9位までほとんど点差がありません。推理小説好きの方にも、そうでない方にもお勧めしたい秀作でした。
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